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Posted by ミリタリーブログ at

2013年04月14日

尻にパプリカ(黄)

本といえばマンガ一辺倒でしたが、ここ2年ぐらい小説をパラパラと読み始めるようになりまして。
1時間半という長い通勤時間の時間潰しに最適なツールとして重宝しておるわけですが、
逆にいえば読みかけの本を家に忘れて出勤した暁には後悔の念と、
いかにしてこの時間をやり過ごすべきかという思いに苛まれるのもまた然り。

プロットやキャラクターの描写、世界観の甘受的承認も楽しみではありますが、
一番の魅力というものは「普段ぼんやりと無意識の枠に収めて思考停止している現象」を
文章を介した著者の声によって一時的にでも再認識できるところであります。
映画ともマンガとも違い、「言の葉」というものは視覚的・聴覚的な影響がないぶん
琴線への触れ方が一周して残酷とでもいいましょうか。全部読み手のタイミング次第ですしね。

「ゼロ年代の想像力」という本を読み始めているのですが、
ようは90年代からゼロ年代の推移と傾向と差分を社会現象なりマンガなり映画なり小説なり
様々な媒体を通して考察し、来るべき10年代(書いている当時は2008年だとかそんなん)に
我々はどうすべきかというような内容だと思うんですが、創作物におけるキャラクターの概念の話で
「まさにそうだなぁ」と静かに頷いてしまいたくなる文章がありました。

「たとえば『空気を読めない人』とは、自身のキャラクターが、
 物語(コミュニティ)から独立して存在するという誤った認識を抱き、
 他者に対して暴力的に自らのキャラクター承認を求める人のことに他ならない」

そのとおりであると思うです。

多感な時期は皆いろいろな可能性を無防備に抱くわけで、
勝手に思い連ねた自身の特異性を自身の手でアピールする行為というものは
ある種の通過儀礼というか特権であると思うんですけど、
そんな多感な時期が過ぎ、いろんなものがそぎ落とされ核みたいなのが現出するわけですが、
「現実」ってやつと「等身大の自分」との埋まらない溝というか収まりの悪さを目の当たりにした時に、
その収まりの悪さを解消するためには具体的にどうするかっていうと、
結局のところもう一度「自身の特異性」を「自身の手でアピールする」という自覚症状のない
二重の焼き付け作業に入ってしまうんですわ。
合意はとれてるであろうと錯覚しながらの承認欲求とそのお膳立てとでもいいましょうかなぁ。
ブログというものがそもそもそういったお膳立てに都合がいいツールなので、
各所で自己愛全開の記事やコメントが乱立するのもまぁそれはそれで一つの道理なのかもと。
ある程度の年になると、「自分を人に合わせる」のはしんどいので、
「もう自分に人を合わせる」という悪意のない開き直りにシフトしてしまいますでなぁ。

で、若輩の頃と違い周りは大人だから違和感がより際立ってしまい、
結局のところ「裸の暴君」と化す傾向が強くなるという。
裸なんで風邪を引きやすく周りから隔離され、百日咳を併発した自身の現状を
やがてピカレスク・ロマンに置き換えるしかないという負のスパイラル。

度が過ぎると非難の対象となりますが、自分の気持ち悪さを冷静に組んだ上での
自虐でもなく自己憐憫でもない「諦観」ってやつに行き着けば、
思慮深さ、平熱感、安定感といったものの助長につながりまして、
最終的にはその人の等身大の在り方を自らが大声をあげるまでもなく
必然的に知らしめるっていうんですかね。真核ってやつを。
いずれにせよそれらは毒にも薬にもなるんですけども、
毒キノコみたいな間違えやすさと、中毒の自覚症状が極めてわかりづらいので、
分布するにしても致死量にならない程度に少しづつ試食しては痺れて懲りるしか
着実な方法はないんですなぁ。びびびびびびび  


Posted by ダブルジェイ at 14:25Comments(6)